「かなしみ」は、それに私たちがのみ込まれるために、やってくるんじゃないって思う。
「かなしみ」が、次から次へと、いろんな姿カタチをとって、やってくることがあっても。
「重さ」を好むこの肉体は、どうしても私たちの体を無意識に無条件にそっちの世界で包み込もうとするから、気づいたら、やっぱりその悲しみの渦に一度はのみ込まれるけれど。
いくつか、切ない経験をしたことのある私は、忘れた頃にやっぱり訪ねてくるこの「かなしみ」の正体が、今はちょっと、分かる気がする。
彼らは、本当に、けっして、そこにのみこまれて溺れ続ける私たちを、見たいわけではないのだ。おそらく。
「かなしみ」に出会って、一度は悲しんで、それから、その後。
「わかったよ。もう、じゅうぶんさ。君の言いたいことは、わかった。」というように、そのかなしみが自分に何をもたらしたのか、そのかなしみによって得たものをカウントしてみるんだ。
たとえば、失うってことによる悲しさを、この体の隅々までいきわたる細胞のすべてでもって、深く、深く、体験したんだね、とか。
たとえば、自分がこんなにも弱く、こんなにももろくて痛みやすい、人間だったんだね、と発見するとか。
たとえば、失う前の時間は、時々怒ったりイラついたりもしたけれど、それも含めてぜんぶ、とっても大切でキレイで、楽しいものだったんだね、とか。
そんなことを数え上げていき、深呼吸して、「かなしみ」に宣言をする。
「ありがと、もう、君には用はないよ。君から学ぶべきことは、学んだ。」って。
そうしたら、その同じ形の「かなしみ」は、ホッとしたように、もう、たぶん、二度とあらわれない。
そういうものなんだよ、きっと。