もあみみ便り

獣医師ヒーラー れお奈のブログです。障がいも不登校も、ど〜〜んとこい!

四つ葉のクローバー

ひとは、自分のみたい世界を、みる。

 

わたしがみるのは、いつだって四つ葉のクローバーをみつける世界。

 

って、そう、決めるんだ。

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この四つ葉さんは、すこしいびつな形で、なんとも私らしいなぁ・・って、ニヤリ笑う。

 

自分でつくる1秒

すすむしかない。

 

すすむっっきゃない。

 

一回の人生だし。魂の旅はつづけども。

 

この体で、いつか必ずやってくる人生のおわりまで。

 

刻々と「時」は過ぎていくのだし。

 

できるだけ穏やかに和やかに。

 

私らしい、愛に満ちて。

 

止まることなく。

 

1秒1秒。

 

すすも。

 

 

あと何分の一だって、たいしてやることは変わらない

近所のおじいちゃんが自転車でふわりふわりと通り過ぎるのを見ながら、私の人生って、あとどれくらいなのかな、とふと思った。

 

今は、3分の1位過ぎたあたりかな。いや普通なら2分の1って言うのかな。

 

あと残り3分の2だろうが、2分の1だろうが、10分の1だろうが。

 

これまでの来し方を一瞬思ったら、それはまたたきをゆっくりめにパチンとする位の、本当にあっという間の出来事だったような気がして、きっとこの後も、そんなふうにあっという間なんだろうな、なんて思う。

 

 

そう思ったら、やっぱり、あーよかった、よくやった私。楽しかったなぁーーーーって。終了した時に満面の笑みで自分を褒めてあげられるような。


そんな一瞬一瞬を、刻んでいきたいもんだなぁ。

 

 

 

自分という車を走らせる

車を運転するときは、「いま、この瞬間」に全集中している。

 

きちんと行く先をみつめ、信号や歩行者や他の車に注意を払い、それでも、必要以上に周りに目をやることはない。なぜなら、自分の車を安全に運転しなくてはいけないから。

 

後続車を過剰に気にしたり、しない。通り過ぎた道もしかり。前をみなくちゃ、あぶないもの。

 

同乗者がいればなおさら神経を払い、ていねいに、揺れすぎないよう、しっかりハンドルを握り、荒くない運転ができているかな、と確認する。

 

運転をしている「いま」に、私の全存在でもって注意と意識をおいている。

 

だのになぜ。

ひとたび車から降りて自分の人生ロードを走るときには、同じようにいかないんだろう。

 

気づいたら、よその車と比べてみたり、通り過ぎた道を何度も何度も、振り返ったりしている。そんなことしていたら、リアルな道路では、事故ってしまうというのに。

 

日々の営み、生きること、も、やっぱり車の運転中のように、やってみることなんだと、思う。自分という車を、いかに丁寧に、いかに周りに踊らされることなく、いかに振り返りすぎることなく、進行方向に向けて走らせるか、なんだと思う。

 

 

アイノカタチ

私は、すでに、もともと、愛の存在なんだろうけれども。

今の私が私であるには、これまでの人生で出会ったたくさんの人からの愛でも、できているのだ。

 


わずかな出会いでも、いっときの期間だけでも、そこで出会い、私という人間に注がれたもの。大きくも、小さくも。さりげなくも、無条件にも。

 


そんな中でもひときわ大きく、ただただ、見返りなく、無条件に、惜しみなく、その人生を通じてずっと私に愛を注いでくれた大好きなおじさんが、この世を旅立たれた。

 


成田に車を走らせながら、思う。あの、膨大に注ぎ込んでもらった愛に見合うお返しを、私は十分にできただろうか?

 


そんなコトを思っていたら、冒頭に書いたようなことに気づいた。

 


私の中に、おじさんの愛はすでにあって、私を私たらしめているもので、それはもう私の一部であって、そして、だから、そこに、ここに、いつもおじがいるようなものであって、私はただ、この生を正々堂々と生きていけば、いいのだろう。と。他の誰かに、やはりこの愛を脈々と、注ぎながら。

 


今はきっと、長い闘病生活から解き放たれ、自由に行きたいところに行っているのだろう。大好きなカメラを片手に。

 


MISIAの「アイノカタチ」が、頭ん中、流れ続けている。

 

 

 

 

コミュニケーションの逃げ道、もとい、極意

いくつになっても、学びは終わらない。

 

最近、真にわかったこと。

言いたいことはまず伝わらない、と、そもそも思っておいたほうが良い、ということ。

 

聞き慣れてることかもしれないが、でもほんとに、毎回、デフォルトとしてそう思って人と会話をしている人は、決して多くないのでは?と思う。

 

そこを。デフォルトのように、自分の信念に組み込む。

 

伝わってほしい、と願って話すから、分かってくれよぅ、と強く求めるから、

 

相手の「言ってること、よくわかんない」に撃沈する。「いやいや、〇〇っしょ〜〜」に反論したくなる。

 

そもそも、英語だろうが母国語だろうが、コトバという媒体を使うしかない私たち人間同士、まともにコミュニケーションをとれる、わけがないんだ。

 

語彙力も文法力も発声法も口の開け方一つ、すべてが各々、違うものを持っていて。

 

これは、あきらめのように聞こえるかもしれないが、そういう投げやりなことを言ってるわけでは、ない。

 

ただシンプルに、そーじゃん、コトバで通じるなんて思わなければいーんじゃん、そもそも!という、パッと顔を明るくした、40代主婦の、遅き発見である。

 

コトバとは、そういうもん。

でも面白いのは、意味は通じないけどなんとなく、あなたの言いたいことは分かる、という表現がある。

 

語る内容に対する思い、真剣さ、悲しみ、誠実さ、真実かウソか・・・などなど。

その人の人柄に通じるこれらは、不思議だけども、伝わる。

 

だから究極、コトバでは通じると期待はせず、でも、真実の、心から自分が言いたいと思う事をコトバにのせるんだ、という思いを忘れない。

で、いいのだろう。

 

まぁ、外国語でいえば、単語を覚えたりして、よりわかってもらう努力なんかももちろん大切だろうが、こっちの結論に至ってしまうところが、いかにも、私が、私たる部分なのである。