ちょうど1年前、私たちは一匹の黒い猫を、捕獲器でつかまえた。
その猫は、その前数ヶ月にわたって、私たちの家に通ってきていた。よほどうちの子になりたいのだろうと思い、捕獲したわけだが、実はずいぶんなビクビク猫くんだった。
半年くらいたっても、まったく触らせてもくれない。それでも、時々こちらの手や顔にお鼻を寄せてくる位にはなり、自由に家の中を歩きまわり、上の子供と一緒に二階でくつろぐまでになっていた。
でも、彼女の外に戻りたい、出たい、と言う欲求だけはなかなか消えることなく、ついにある日、うっかりと閉め忘れたリビングの窓から、するりと出ていった。
それから数ヶ月、最初のうちこそまた庭でご飯をあげたり、近くで姿を見ることができていたが、だんだんと姿を見なくなってしまった。生きているかどうか、無事なのかどうかが心配になった。
ついに、張り紙をした。近所の人の目が、頼りだった。すると、何度か目撃情報が寄せられるようになった。その中の一軒に、彼女がまた足しげく通っていて、ときにはご飯ももらっているという。
会いに行ったが、パウチのおやつだけを奪うように食べて、逃げてしまった。やっぱり、指一本も触れさせてくれなかった。
考えた。彼女の幸せを考えた。
だいたい猫の幸せってなんだろう。今のこの国、この社会では、猫も犬も自由に外を歩かせてはならないという。猫は家の中で飼うようにという。たしかに感染症もあるし、自動車など危険も多い。でも。すでに外の空気を知り、森や空き地や自然を知っている猫にとって、本当の幸せってなんだろう。
獣医師としての社会的正論とヒーラーとしての地球的視点と。その間で揺れ動く。
ことのほかこの黒猫を可愛がり、2階の住人仲間でもあった上の子と、何度か話し合った。正しさって何だろう。この子の幸せは、何だろう。私たちの望みは、何だろう。
その上で、私たちが出した結論は、この黒猫に、もう一度だけ、付き合ってもらおうというものだった。とてもとても一方的かもしれない、私たちのエゴ的希望に。
寒い冬の間、凍えてやいないかと、心配をしてしまうから。
大通りを走る時、飛び出しては来ないか路肩に倒れてはいないかと、心配をしてしまうから。
外猫さんの方が、やはり長くは生きないと聞いては、心が沈むから。
もしかしたら、たといウイルス疾患をもち鼻を詰まらせながらでも、林や森で自由に昆虫を追いかけ、風を感じていたほうが幸せだと、彼女は言うかもしれない(今の状態では、間違いなく、そう言うに決まってる)。
それを承知の上で、もう一度捕獲器を借りてきた。通っているお宅の玄関先に置かせてもらった。
すると翌朝、そこに彼女がいた。以前よりさらに鋭い眼差しで、シャーッと威嚇をしてきた。それでもとにかくそこに、黒猫チッチがいた。
おかえりチッチ。
これから君の人生、悪いんだけれども、私たち親子のエゴに付き合ってはもらえまいか。そしてもしよかったら、人は怖いものばかりじゃなく、その手で撫でられると、一緒にいると、もしかするとお互いにとても心地よくって、ほっこりと心があたたまるかもしれないってことを。
一緒に、そんな経験を、作っていってくれまいか。