失うということ
私たちは、知っておいた方が、いいのかもしれない。
また来よう、と思っていた場所に、ふと、行けなくなる日が、
またやろう、と思っていたことが、できなくなることが、
また会おう、と思っていた人に、会えなくなることが、
ある日突然、やってくるってことを。
いや、こういったことがある日突然やってきて、初めて人は、その事実に気がつくしか、ないのかもしれない。
当然、愕然として、深い底なしの悲しみにくれる。
なんとか、同じものを取り返せないかと、必死でもがくかもしれない。
でも、どれだけ嘆き悲しんでも、もう、決して同じ景色は見られない。
そして残念ながら、こうしたことは、生きとし生けるものであればほぼ全ての存在が、大なり小なり経験しなくてはならないことだ。
でも、一度(やもしかしたら何度も)そうした経験を経たあと、私たちはどうするか。
嘆き悲しみ続けて残りの人生を生きるか、それとも、ただ、その時が来たのだったのだ、と受容して、前に進むことを選ぶのか。
できることなら、後者の方がいい。
だって、変わり続けることは、必然。
自分もその中に巻かれて生きることを受け入れた、その先にこそ、新しいめぐり合いや「何か」が、待っているから。
最初は這ってでも、進むことの方を、選ばなくてはいけない。
「喪失のごう火をくぐることによって、わたしたちは人生のむこうがわに行くことができる。」
とは、私の敬愛するエリザベス・キューブラー・ロス博士の言葉(『ライフ・レッスン』角川文庫より引用)。今回、文体も、どこかロス博士(の翻訳本)風・・っていうか、どこかに書かれていたことのほぼパクリかもしれない(笑)。
愛するものを失った友人へ、何もできない私ですが、捧げます。