もあみみ便り

障がいがあってもなくっても、子供は子供。あふれんばかりの「愛」を、子らに、犬に、自分に、この世の生き物すべてに、届けたいな。

夢のかけら

エレカシの『夢のかけら』。朝から、そのワンフレーズを子供(上の子)と歌います。

でも、「ぼくらが追いかけ」ているのは、「夢」ではなく、「連絡帳」。

 

気がついたら、学校と家とを行き来するはずの連絡帳は、ノートスタイルからになり、ついにはかけらになっていたようです。

 

「あれ、もうちょっと、使っていない、かけらがあったはずなんだけどな・・・。」

と息子です。

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今日は子供を病院に連れ出す予定を先生にお伝えしようと、久々の「連絡帳出して~」だったのですが、すでにノートはノートでなかったという、この事実を発見できたわけです。

これぞ、高学年男子!!

 

先日も、

「ねえ、なんでランドセル、軽くなったと思う~~?」

とニヤニヤしながら聞いてきます。軽くなったことも初耳ながら、なんの脈絡もなく唐突に聞いてくる、これも、あるあるです。

 

「授業がなかったの?」「体育と音楽だけだったとか?」

と、私もテキトーに返せば、何と、

 

「いらないもん、全部出してみたの」とのこと。

みると、床にひと山、紙類、プリント、古いノートなどがぐちゃっと積み上がっておりました。

 

 

・・・高学年、男子。

 

それにしても、連絡帳を確認していないなどは、親である私の責任も大きく、ほったらかしすぎてたかなぁ、なんて反省なのですが、だいたいが、言われた通り、決まりごとの通りに枠におさまることを心地よいと感じてしまう(私と正反対な)上の子の性格だったのです。枠からはみ出る、ルールを守らない、なんて~~~・・・なんて、成長ーーーーーーーー!!!

思わず頬が緩んでしまう、ヘンテコな親です。

 

そしてきっと担任の先生も、連絡帳のことなど、とうにご存知のはずです。でも、いちいち細かいことで揚げ足を取らず、どん、っと子供を信じてくださっているご様子、、ちょっと感動しました。子供たちが大好きな、まっすぐな、先生なのです。

お若いけれど、あっぱれ~~!な、先生に、感謝です。

 

3.11復興支援ライブ

311日に、8年間、復興支援ライブなるものをずっと続けてこられたライブハウスがあります。お店に来た方のライブ参加費の半分を、寄付されています。

実は1年ほど前からはじめたバンド活動。ご縁あって、昨年から2度目の参加です。

 

 

昨年はちょうど休日だったように思いますが、今年は週も始まったばかりの月曜日。

バリバリの平日ということで、お店に入ってすぐに、わ!背広ばっかり~~!少し気が縮む私。・・なんでかな。背広、いわゆるスーツにはあまりなじみがないのです。どうしても、お堅い職場でお堅い目線で上から何かを言われるような、そんなイメージが一瞬わいてしまいます。

 

ところがところが、そんな妙なイメージはあっという間に吹き飛びました。小さなステージ、その真ん前に陣取ったバンドメンバーと共に、思う存分、堪能させていただいたわけですが、なんとなんと、なんと皆さんの楽しそうなこと!!!

 

背広なんてとうに脱ぎ捨て、ワイシャツは袖まくり、汗もたっぷりかいて、自分の体を、楽器に、マイクに、ぴったりとより添わせて最高のお顔。リズムを感じ、心から音に酔いしれて。

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決して広いとはいえない店内、ぎゅうぎゅうに入ったダイの大人達の顔はみんな、少年・少女のよう。キラキラとして、これでもかーーっ!と音は弾けて、もう、みている私もサイコーな気分です。

 

みなさん、日々、頑張っているのだな。

 

しかも上手い方ばかりで、本当にすごい。いくつも楽器をこなされる人たちもたくさんいます。未熟な私の歌なぞにも温かくのってくださり、ありがたいばかりです。

でも、これは間違いなく、上手いとか下手とか、そういう話では、ないのです(弁解のようですが、いや、ホントに)

 

ただ、ただ、何もかも忘れて、時を忘れて、自分が好きなことに没頭し、それを「ねぇ、聴いてきいてー」とワクワクしながら披露して、その功績をたたえ合う、それこそが、こういったアマチュアバンドたち集うライブハウスの醍醐味なのです。それを今日も身をもって体感し、感激してきた次第です。

 

いいな~~・・やっぱり音楽って!

 

 

好きなものは人それぞれですが、私には、どうやら、ミュージックは相当なエネル源のようです。どんなジャンルであれ、そこに、それを演奏する人の魂がみえる限り。

 

3.11に祈りと追悼の気持ちを込めつつ、音楽に浄化された今の私が思うこと。

 

今を生きる私達は、まずは自分を大切にして(・・よく聞く言葉だけれど、実際どれだけの人が実践できているだろう?自分にしかわからない、心躍る時間を、どれくらい、持つことができているだろう?)、そして、すぐ隣にいる人達を、自分と同じように大切にして、目一杯、この世を生きていくだけだ。

 

そして、みんなもっと、幸せになって、いい。

 

特別支援学校に通う息子の勉強について、真面目な打ちあけ話です

今年はじっくりと、なおぽんに訓練ゲームだけでなく、お勉強もさせてあげたい、と考えています。

 

特別支援学校に通っている次男、なおぽん。彼が在籍するクラスでは、国語や算数といった、お勉強系の教科書はもらいません。かわりに、絵本をいただきます。学校入学前には、兄のように勉強するんだ~、と夢ふくらませていた彼には、酷な話です。でも幸い、我が家はその情報だけは入学前から知ることができたので、本人にも伝えておくことができました。

 

今年で学校生活3年目に入りますが、学校に行く意味、目的、そんなものを考えながら過ごしてきた気がします。

 

最近Facebookにも似たような驚き(悩み)をもらしている投稿を発見。

(ご本人のお名前が出てしまうので、許可をいただき次第、こちらにリンクを貼らせていただきたいなぁと思っています。でもポランの広場で有名な伊藤史人氏のFacebookからも、きっとたどり着けることでしょう。)

 

そこで、同じような思いを抱えた障がい児とお父さん、お母さん達に、もし参考になることがあればいいな、と、この2年間の道をざっくりと記録しておきます。(きっと道は一つでない。かつ、私たちが通った道は、母の性格上、かなり適当かもしれない。)

 

 

まず入学当初から、たくさん、たくさん、私となおぽんの意思については、学校に伝えてきました。学校側が一番気がかりな、医療的なこと、発作の形から時間、そして聞かれてもいない、本人の性格やくせ、ときに心眼のようなもので見極める本人のサインについて。

 

私は、これらのことは、重度の子供であればあるほど、親側に伝える責任があると思っています。だって、学校は、教育現場。先生方は、みてくださる、と言っても、医療の専門家ではないのです。あくまでも、教育がご専門なのです。

 

なおぽんはまた「身障者手帳1級」という、いわゆる「重度で医ケア児」という世間的レッテルのはられた子供です。一見するとどこも動かせない(でも発作ではかなり動く)、人形のようなタイプの子どもだったので、とくに、それはそれはたくさんお伝えしました(どっちにしても付き添いに一年近く、時間がたっぷりありますしね)。

 

でも、意識したのは、なるべく自然に、軽く、笑顔で、彼の状態を伝えること。

 

だって、彼の体の状態は「重い」かもしれないけれど、心は「軽い、自由」であることを私は知っているから。障がいを重~~くつらく、悲しいことにしているのは、結局のところ、周囲の人間なのです。

 

 

 

そして私は、よく小耳にはさむような、学校vs親、という図式は好きではありません。

 

 

学校の先生方だって、大変なのです。縛りが、たくさん、あるのです(きっと)。

一生懸命やってくださっているのです。

 

細かいところは、ご存知でなくて当然。

ただ、ご存知でない、だけなのです。しつこいようですが、学校全体が、社会全体が、ご存知でないことがたくさんあるのです。そして特に、一人一人の病状、ケア、性格と、確かに、普通より難しい子供たちなのですから。

 

 

だから、そう思うと、ちょっと厳しそうな学校のルールだって、とんちんかんに思える規則だって、決して、目の前の先生方一人一人のせいだなんて、絶対に思えなくなります。そしていざ色々関わっていただいたら、さすが教育のプロ、という、新しい視点や発見も度々くださったりして。

 

 

そういう、「めーーーーいっぱい伝える&教わる」の気持ちで、2年間学校に通わせてきました(決して、察してよ~とか、空気読んで~なんて、思わないことです)。

教科書がないこと、教科の学習がないことも、「本当は、やりたいんですよ~~」と、笑顔でしっかりお伝えしてきました。「できれば、教科書、いただけると嬉しいなぁ~~」と。

 

 

すると、やっぱり先生方も一生懸命なんとかしようとしてくださる。

学校たるもの、「ではカリキュラム、変えちゃいましょうね~~」とはいかない、なかなか厳しい体質をお持ちのようなので、それでもなんとか工夫して、一人一人の個人タイムに、算数の足し算に取り組んでくださったり、絵本の読み聞かせレベルも考えてくださったように、思います。

 

 

そして、今年。またアンケートがあったので、また、私は書きました。

「教科書、いただけると嬉しいです~~」と。

 

 

そしてそして同時に今年は、個人的に、デイジー教科書というものを申請してゲットしてみました。

(こちら→ http://www.dinf.ne.jp/doc/daisy/book/daisytext.html

 

一般の小学校で使われているのと同じ教科書を、パソコンなどの画面でうつし出し、自動音声で読み上げてくれます。今や、パソコン持参で通う小学生となったなおぽんですから、そのパソコンに入れたデイジー。すぐに、先生方も気がついてくださいました(今年は学校でもこれを使ってもらえたら、嬉しいな)。

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きっと、今年も学校から教科書はいただけないかもしれない。でも、ゲットしたから、大丈夫。

必ず、方法は見つかるのです。

 

大切なのは、どんな時も、誰かを責めないこと、なのじゃないかと思います。特に、なおぽんに直接関わってくださる人々のことは、まず、感謝。それにつきます。

どんなことであっても、かならず、希望し続けていることには、道はひらける。できれば、その開いた道は、人の笑顔の先にあるものであってほしい。

 

かならず、道はあります。

 

 

そして、最近なんとなーーく、分かりかけていた特別支援学校に行くことの意味も(もちろん自立活動でのリハビリとか、明らかに色々あるのですが、ここではお勉強に関して、です)、『サイボーグ時代』の著者、吉藤オリィ氏がすらりと表現をしてくださっていました。

 

学校に行く意味、それは、休み時間にこそ、あると。

(一応補足すると、ここで彼が伝えた『学校』は、一般的な意味の学校です)

勉強なんて、もう動画などでも十分にできる時代である。

休み時間にこそ、友人との関わり、コミュニケーションや、社会との関係を学ぶのだ、と。

 

ふむ。ふむ。そう割り切ってしまうのも、いいじゃないか。

 

なおぽん自身、近頃はそれをしっかり意識している模様。

ちゃんと、いろんなことを吸収し、自分からも発信しようとし、徐々に私から自立した姿勢を身につけ、2年前の彼とはもう立派に違う姿へと、日々進化しています。

だからやっぱり、学校って有難いところなのです。

 

ちょっと長く、熱くなってしまいました(こんなところまで読んでくださっている人、いるかなぁ?)。

 

 

ちなみに、学科のお勉強、ということについては、どんな学校であっても、今、大きな転換期に来ている、といわれてるように思います。

AIの台頭とそれに付随して求められる人材の質の変化。

教育全体が、ぼちぼち、「かわりどき」なのでしょう。

 

だから、なんであれ、マイペースで、良い。きっと、やりたいことを、やりたいようにやって良い。誰かを責めるよりもその同じ時間で、自分の手足を動かし、目の前の子供に合う勉強方法を探す方がいい。一人一人に合う方法を探し、得意な方法、得意な科目を選びながら進むという、新しい勉強の仕方が、今後は主流になるかもしれない。

 

なんかまだ、どういう方法が息子に合うのか、彼が何を得意としているのか、わからないけれど、学校入学当初よりもずっと、息子の勉学について、楽観的な自分がいます。

 

あせらず、一歩一歩、探し求めて進んでいこうと思います。

 

長い文章、お付き合いいただいて有難うございました♫

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やることリスト

やることリスト、ってなんで箇条書きなのだろう?

上から順番に、横書きで(中には縦書きの人もいるかな)リストアップ。最近では、すでにそういうテンプレートの付箋まで売っていますね。とっても可愛くて、思わず買いかけました。

 

で、この間までは、私もそういうものだ、と思って、そう書いていました。

でもふと思いついて、昨日から、こんな感じに書いてみました。

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こっちの方が、しっくりきました。

まるで、私の頭の中をそのまま映し出したみたい。

絶対やらなきゃいけないことなどは、自然と上の方だったり、大きなマルで囲ったり。なんとなく、やりたくないものは、気づけば小さなマルだったり。

 

終わったら、塗りつぶすのです。半分しか終わらなかったら、半分だけ。

そのステップも、このリストだったら、ちょっと楽しい。

オススメです。

 

ビフォーアフター

古いフルートのケース、

Before↓

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After↓

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ボサボサの犬マロン、

Before、、というか、途中↓

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After↓

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手を動かすことが、結構すきです。

でも、さすがに、ボサボサの大型犬一頭を仕上げた翌日は・・いたるところ、筋肉痛です。

海にうずもれたあぶくたち

銀座のツタヤで、視線入力マイスター(島根大の伊藤先生)がおっしゃっていたことです。おそらくこれまでに何度も何度も、きっと、日本全国津々浦々で、身を危険にさらしてまでも(笑)吐いてくださっているのでしょうが・・、

 

重度障害を持つ子供たちで、今、ICT機器などを使ってコミュニケーションをとっている子はごく、ごく一握りであると。きっと、おそらく、まだたっくさんの子供たちが、その必要性も認められず、機会を与えてもらうこともなく、ただうずもれているだけであると。

 

 

 

 

私の頭の中に、深い、深い、海の底が浮かんだ。

 

そこ知れない大きくて深い海の中、光もわずかしか届かない、海の底近くに、たくさんの泡(あぶく)が漂っている。

 

なおぽんは、そんなあぶくのひとつ。

 

まわりにもたくさん、似たようなあぶくが海の中にうずもれていて、気づかれることもなく、ただ、そこに漂っているのだ。

あぶく達は、お互いの姿は見えるけれど、どこを見ても薄暗い悲しいブルーに覆われていて、なすすべを知らない。己の泡を保つのにすら、精一杯のあぶくもいる。

 

なおぽんは、そんな深い海に漂う、あぶくのひとつ。

 

でも、そこから少しずつ、少しずつ、海面にめがけて上昇しようとしている。上がっていく方向を、見つけることが、できたから。先輩のあぶくたちが、一生懸命上がってくれて、海面でともし続けてくれる、灯(あかり)がみえたから。

 

そして、上がっていくときには、かならず、他のあぶく達も一緒に、ひとりでも多くのあぶく達と一緒に、光へ向けて上昇するのだ。

 

だって、広い広い大海原で、たったひとつ、小さなあぶくが浮かんでいても、誰が気が付くだろう。何ができるだろう。でももし、海の中にあったあぶく達が、たくさんたっくさん、上に浮かんだなら、みんなで大きなひとつの「あぶく」だって、作れるだろう(スイミーのように)。

 

そうしたら、広い広い海の上でも、さすがにきっと、他の魚や船が、気付くだろう。

 

 

そんなことを考えながら、気づけば千葉の家に帰ってました。

 

 

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(写真は、全く関係ない数年前のベルーガ氏)