最近、ちょくちょく、生きものたちが私の前にあらわれ、とびで、歩み寄ってきます。直近の1〜2ヶ月で、
イタチ
黒猫(もうほぼ毎日、ビクビクしながら通い猫。)
そして今朝は
運転席横のクモは、入れるべきか入れざるべきか。
・・いれよう。
イタチやヒキガエル、ハクセキレイなどは、いなくはないでしょうが、普段あまりみないような、そんな珍しさも加わって、より意識に残ります。
クモにいたっては、明らかに今はまた違う種類のクモが巣を張っていて、そう、前に私の横で折りたたみ式のクモの巣をはっていたのは、どうやらお母さんクモだったようで、先日その亡骸がミラーの横に出てきたのでした。
子育てに奔走している私の横で、彼女もやっぱり奔走して一生懸命クモの巣を張っていたのだと思うと。なんだか、クモや昆虫が苦手である、という私の意識もありながら、同時に、もっともっと大きな母の愛をわかちあう仲間、という意識が湧いてきて、私は、なんということでしょう、おそるおそるその亡骸を近くの草むらへと、弔ったのでした。
だから、明らかに、今巣を張っているのは、別のクモだし、みるからに違う形の巣なのです。まったく、不思議です。クモの巣を張る場所はどこにでもあるのに、なぜまた、ここに?
私たちには見えないけれど、クモたちの間では通じる「痕跡」や「伝承」でも、あるのでしょうか?
わからないことなんて、もうたくさんありすぎて、もうただ「やれやれ」というよりありません。
今朝、上の息子が言った言葉が思い出されます。
その言葉を出す前に、ちょっと説明のために時を戻します。
日々通ってくる子猫(もはや中猫?の黒猫)を、いかに我が家のネコにしようか、という論議が、昨夜ちょうど晩ご飯のときに持ち上がりました。
寝る場所を高い位置に作ってあげよう(犬がいるから)とか、その固定法とか、餌の場所とか、そんなことをちまちま考えている大人2人を前に、中学生の息子。大変冷静に、猫を迎え入れるために我々が超えねばならない課題を、7つばかり、きれいに並べ上げてくれたのでした。
ひとつ。人間のねこアレルギーはどうするか
ふたつ。犬との関係をどうするか
みっつ。鳥はどうするか
よっつ。
・・・と言った具合に。
ぉぉおおお〜〜。そうでしたね、息子よ。
と、そんな流れがあっての今朝です。
今朝、彼は「(計算では)問題をゼロでわってしまえば、ゼロになる」と、いうのです。
ぉぉおおお〜〜〜、なんて究極の答えをだしてきた、息子よ。
しかも、なんて、深い。
結局、わからないことなんて、世の中わんさかあって、それをちっぽけな人の頭でわかろうとしたって答えは出てこない。そんなことは山ほどあります。
想像や妄想を膨らませるのは、楽しい時間を過ごすためにとっても大切なことですし、ぜひともどんどん膨らませたいものです。
クモの巣のワケ、黒猫とのかけひき。
たくさんの妄想と想像とできることがあればやってみて、それでもしそれ以上悩みそうなら、
ゼロでわってしまえ〜〜〜〜!!
ゼロでわってゼロになる。
今朝の素敵な学びでした。
(↑こういう星雲、ありそうじゃない?)