変わりたくない、という人がいる。
世に、「保守的」という言葉もある。
でも、そういう言葉で自分を表現するのは、ちょっとひとまず置いといた方がいいんじゃないかな、と思う今日この頃。
これは、私が今日、ふと思いついたことだけれど、
あの人は勇気があるね、とか気楽にいうけれど、「勇気」というのは、決してうまれながらに持っている性質だと、思っちゃダメなんじゃないか。
勇気って、産まれてから今日に至るまで、その人がやってきた選択の積み重ねなんじゃないか。
小さな時からずっとくり返し目の前に差し出される、さまざまな選択(これを食べるか食べないか、あの子に声をかけるかかけないか・・・、とかとか)。
そう、するか、しないか。
この2択で、「する」を選ぶ。
初めての飲み物を飲む、さわった事のない生き物に触れる、人から誘われた所に行ってみる・・、云々(悪いものに手を出す、みたいなシチュエーションはここでは除外。そういう時は、「選択しない」ことの方が大切だったりするだろう)。
ささいな選択もあるし、みるからに勇気がいる、ってものもある。
けど、なにはともあれ、それを「する」「やってみる」の選択をした時、結果がどうであっても、勇気のタネを、心に育てているんだと思う。
私は、たぶんずいぶんと、自他共に認める小心者に、産まれてきた。でも、大人になり、子ども達とかいろんな存在や出来事を通じて「えらぶの?えらばないの?」「するの?しないの?」という2択にたくさん恵まれ始め、幸いにも、ちょっとずつ、「する」の方を選択してきたようだ。
だから、今は、昔ほどには小心者ではないと、自負している。
そうなると、冒頭でいったような、「かわりたくない」をうたう人は、つまり、自分は「しない」「やらない」人だと、勇気のタネを育てないコトを公言しているような、そんな気がしちゃうのだ。
いつからだって、勇気ある勇者への道を、歩み始められるって、私は思う。