「ママ、思いついちゃった」
というと、上の息子の第一声は大抵、
「やめて~~~~」という。
でも、その顔は、にやけている。
これまでの人生で、思いついちゃった、と言って始めたことは、結構多い。
リビングに必要そうな、テーブルの自作。
海外でふと思いついて参加したボランティア団体。
医療ケア児育てながらの仕事。
など、など。小さなことから、少し大きなことまで。
一方で、思いついちゃったのに、行動できなかった(しなかった)ことは、そんなに多くない(?どうだろう、わかんないけど)のに、記憶として残りやすい。
前の借家の押し入れを、小さな部屋にしようと思いついたこと。
お金を貯めて、世界を周る船に乗ろうと思いついたこと。
なぜ、やらなかったことの方を、覚えているのだろうか。
やってみたことは、それが上手くいったかとか、継続しているかとか、究極「良かった」のかとか、そんなことは脇に置いといて、とにかく「やった」こととなる。
行動してみて、やってみて初めてわかる世界を「体験」する。
そこにこそ、意味があるような気がする。
その体験した世界が本当に自分にとって心地よい、フィットするものならば、それは続くだろうし、もし、何か想定と違ったからやっぱりやめよう、となったとしても。
「思いついたことをやらなかった」
世界とは、もう、完全に違う世界を見ているのだ。やらなかった時には、得られなかった何かを(見えるものであれ見えないものであれ)、ゲットしているのだ。
だから思いついたことは、それが正解かどうか考えている暇なんかあったら、やってみればいいのだと、私は思っている。
(・・当然だけど、それがポジティブなことならばね♫)