もあみみ便り

障がいがあってもなくっても、子供は子供。あふれんばかりの「愛」を、子らに、犬に、自分に、この世の生き物すべてに、届けたいな。

横ならびで行こう

カマキリにカタツムリ。そして今度はキジバトです。最近、忽然と私の目の前に、生き物が現れます。

 

有名な歌の歌詞にもあるように、「目にうつるすべてのものはメッセージ」なのだとしたら、これは一体、何のサインかしら、と思いましたが、昨日私の前に現れた第3の使者(キジバト)は、それはもう明らかに、何かを、伝えていたのです。

 

そのハトは、朝もやの中、きっ、とまっすぐに私(の乗った車)を見すえ、10mほどまで近づいても道路の真ん中に座り続けていました。お腹の下に、卵でも抱えているのかな・・(心の声「いやいや、ここ、道のど真ん中っ!」)なんて思うほどの、堂々っぷりです。後続車もいない私道でしたので、ゆっくりと車をとめて、さてどうしたものか・・・と、しばらくにらめっこをして、それでも、やっぱり、動かないハト。こうなったら本人(本鳥?)に聞いてみよう、と車から降りかけた瞬間、大空へと飛び立っていったのでした。

 

鈍い私が、必死に頭をめぐらせてたどりついた、彼らのサインの意味は・・・きっと、

「ブログをお書きなさい」かなぁ・・(笑)?

 

というわけで、他に思いつかないので、書いています。

 

 

実は、私は、生き物が、大好きです(何をいまさら、でしょうか?)。

幼い頃、ネズミ捕りにかかったネズミをまじまじと見て「かわいい~~」といった私に、逆にネズミは不衛生で見ることすら許されない化け物だと思っていた母は、たいそう、驚いたそうな(これはどう考えても、母の方がおかしいです)。

 

好きがこうじて大学でも動物について学び、そして、その後も、なるべく生きた動物、生き物に関わる人生を送りたいなぁと画策し続け、そんな中で、でもちょっとだけ、あれれ?と考えることが、あるのです。

 

それは、『ヒト>他の動物・生き物』、の構図です。

 

ヒトは、進化をとげた高等動物で、知恵があって、手で道具を使うこともできて、だから、(簡単にいえば)他の生き物よりも「エライ」みたいな、そんな無言の大前提が、あるように感じるのです。

 

たとえば手で道具を使って何かをできることが、ヒトに特有、とまでは言わないけれどもひとつの知能の証、みたいなこと(?歯切れ悪くてすみません。あやふやな昔の知識です、そんな事は教えておらん!って、怒られませんように・・)も、習いました。

 

でもね、けっしてそんなことはないと思うのです。現に、私の家の金魚は、立派にヒレを使って陶器のハウスによりかかっておりました。ほら、「ヒレ」の使い道はけっして水をかくことだけじゃないって、そして、陶器のハウスは私たちの思う道具ではないけれど、しっかり体を支えられるってことを、魚類の彼だって知っているのです。

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そして、脳が大きくてシワがたくさんあるから、ヒト>アウストラロピテクスなのでしょうか??

 

これだってどうやら、脳の大きさなんて、あまり関係ないようなのです。

ここからは、最近読んだ、ある本(*)のうけ売り。

 

たとえば、鳥のちいさな頭(脳)にだって、場所によっては、人より多くのニューロン神経細胞)があるし、だからそもそも脳の大きさなんかで一概に「知能」を論じれるものでは、ない。とか、チンパンジーや鳥やちっちゃい虫たちだって、ときに私たちヒトには真似もできないほどの、すぐれたGPS機能や戦略を持っている、とか(たとえば伝書バト。目隠ししたり、磁気を狂わせたり、いろんな実験をしても、どうしたって必ず鳩舎に帰ってくるそうです。そして、その仕組みについては・・・まだ未知の世界)。

 

〈*『鳥頭(とりあたま)なんて誰が言った?~動物の「知能」にかんする大いなる誤解~』(エマニュエル・プイドバ、早川書房)・・・ ステキな副題です♫〉

 

エマニュエルさんは、本の中でこうも言ってます。「知能というのは動物界では多様」で、「一つではなく複数ある」と確信している、と(「知能を序列化しようとしても虚しいだけだ。なぜなら、ヒトは持っていないが他の動物は備えている能力というものが存在するからだ。」)。

 

 

こんなステキな本に出会い、いま私は、ちょっと自信を込めて、こんなふうに思っています。

 

 

本当はただ、きっと私たち、「横ならび」なんじゃないかなぁって。

 

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どっちかがどっちかより「優れている」とか、これができる方ができない方よりも「エライ」とか、そんなこと、ない。地球という星の上には、たっくさんの生き物がいて、どんな生き物にも、なにか、最高にかっこいい特技がある。そして、けっして、その特技同士を比べたり、やっかんだり、そこに優劣をつけたり、する事はない(っていうか、そもそも種も違うわけで、できるわけがない)。ただ、みんな、自分が誇る特技にのって、目一杯、生きるだけ。

そんなことを考えていると、「高等動物」だの「下等動物」だのという言葉で、わざわざ、人類だけを区別化しようとしている私たちヒトだけが、真実の置いてけぼりをくっているような、そんな気にすら、なります。しかも、おんなじ「ヒト」の中であっても、そこにさらに優劣をつけてしまったり、するわけです。悲しい、とっても悲しい、これこそヒト特有の、サガでしょうか。

 

 

つまり、ヒトが他の生き物にしているようなとらえ方を、やっぱり、ちいさく限定されたヒト世界の中でも、やってしまっている気がするのです。だから、私はきっと、障がい児者のまわりでたびたび聞かれる「弱者」とか、「まもる」という言葉に少し、敏感なのでしょう。こうした言葉は、うすいうすい、ある種のフィルターを含んでいるような気がするのです。それを表現する者の方が、その言葉を使われる人よりも「上」とか「優位」とか「強い」といったニュアンスを、無意識に近いレベルで埋めこんでしまうような、フィルターです。

 

 

・・ついでにいうなら、この狭いヒト世界では、「言語能力」がほぼイコールで「知力」を指しているようだな、とは、最近気がついたり教えてもらったことです(どんなに複雑な数式を理解できても、それを論文にしたり文章にして初めて、周りの人間がその能力をしるわけですから)。

 

エマニュエルさんは動物界についておっしゃっていますが、人間界だって、「知能/知力」の指標は複数あっていい・・・ってことだと、思うんだけれどなぁ・・・。